ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

新鮮な感動は今も必要

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 新鮮な感動やインプットがないと、シンドイなと思い始めた。

 外出自粛が始まって美術館・博物館に出かけられないから、自分の写真撮影に影響が出ると考えていた。室内撮りに切り替えているが、ずっと室内で撮り続けるのも飽きが来てしまい難しい。

 

 もとから引きこもっている自分であっても、自由に出歩いて良いが家にいることを選ぶのと、家にいるしかなくて家にいるのでは、全然違う。

 こういう状況が続くなか、散歩が大切だったと気づいた。そして図書館で読み切れないような量の図書を、毎週とか隔週で借りるのも自分にとっては生命線だった。(図書館本の積ん読にも意味があったということ)

 不要不急をなくせば世の中過ごしやすくなると発言している人もいたが、何かのついでがなくなるだけで、世の中こんなにも息苦しいのかと感じている。

 

 この機会に自分が以前から所有している書籍に目を向ければ、不要なモノは処分して身軽になって、何度も親しんだ名作をあらためてゆっくり読むこともできる。

 が、あまり乗り気になれない、集中力が持たない。なぜか?

 スマホを触ってしまうからである。SNSを見ている時間が大半だが、新型コロナ以前からSNSとの付き合い方を変えたいと思っていた。

 それは、TLを追うことや何かポストすることにエナジーを費やしても、リターンはほぼ投入量以下にしかならず、徒労感がつきまといがちだからではないだろうか。

 TLを見続けると疲れるのに、一番気軽に世の中の情報をキャッチするのがSNSになっている。

 そしてSNSに期待しすぎている。昔の古き良きSNSを経験したから、同じ感覚で今もSNSで人とつながったりしたいと考えるが、もう大半の人たちはSNSを使っていなくて、SNSでつながることも望んでいない気がする。

 

 少し前、SNSが交流から壁打ちする場所に変質してしまったことを自分は嘆いていた。

 今はSNSが感情をグルグルにかき乱す『感情暴走機関』みたいなもので、流れてくるTLの感情のぶつけ合いに、感情を投げ返している人がたくさんいる。

 その流れに自分を浸すことで高揚する部分もあるが、不健康な私がTLを眺め続けてしまうと、SNS自体や人々との距離感を間違えやすい。不幸な勘違いである。
 

 新鮮な感動をSNSばかりに求めているから、シンドクなってしまうのだろう。

 このテキストは、「JUNK 爆笑問題カーボーイ」が取り上げた、ナイナイ岡村さんの話を聞いていて、何か書きたくて書いた。

 誰かのアウトプットに感動して触発されることが、生きていくためには必要だ。

 日常にあるささやかな発見と、古典的作品からの温故知新で触発されていく姿勢も、年老いた自分のできることとして習慣にしたい。そうでないと、この先生きのこっていけない気さえする。

 

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