ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

言葉に疲れる時代に思うこと

ボヤキ

睡眠時間が5時間以下になると、健康状態に問題が出てくるというウェブ記事をツイートした。個人的には、まあこういうこともあるので意識したほうが良いですね、くらいの感覚だった。

が、このツイートをRTした人がRTに続いて、眠れない人にとってはプレッシャーであるとつぶやいていた。言いたいことは分かる。でも、げんなりした。

ここで、「私も睡眠に問題があったが、医者や薬にたよって睡眠を改善維持している」と返すのは、「あなたは努力が足りない。私は努力した」というN=1の経験論で殴り返すのと変わりない。それが正解じゃないことがわかるくらいには、私も経験を積んだと思いたい。

 

 

盛られる言葉

いわゆるマイノリティに当てはまる人々や社会的弱者にさせられた人々は、依然として自分の声が社会に届かないと考えているのか、自分が不遇であることを強い言葉でSNSに書いているのを見かける。

まだマイノリティという言葉がSNSで認知される前なら、広く伝えていく手段として、マジョリティに気づきをもたらす言葉だったと思う。

でもいまSNSを使っている世代にとって、社会的弱者の範疇にいる人達が日常で苦労していることは、もうわかりきっていることなんじゃないかと思う。

日常での困りごとをミクロに理解しているということではなく、一般的とされる日常生活が困難であるというマクロな理解ではあるが。

 

いつまで強い言葉をつかっていくのか?

SNSでニュースがあっという間に拡散されて、大きな感情のうねりをつくるように、今や社会的弱者の声は、SNSではある程度力を持っていると私は思う。

すべての社会的弱者の声にスポットが当たるわけではないが、「社会的に困っている人が隣人なのかもしれないよ」ということは、ある程度SNS慣れした人には当たり前である気がしている。そうは言っても私も、外見から社会的困難さが見えてない場合が多々あるが。

 

結局、強者も弱者も自分を守るための論理を振りかざして、火花をちらしているように見える。言葉に疲弊するだけで、誰を幸せにできるのかよくわからない。

私が思っている理想形は、お互いの不遇を横の関係で笑い合える形なのだけれど、どうしていくのがいいのか、全然見えない。

 

おわりに

マジョリティは、これからどんどん解体されていく。

誰もが自分の生きづらさを持っていることに気づき、誰もがマイノリティという言葉ですら集えない、孤独の海に飲まれていくことになると思っているからだ。

 

そういう時代に、知らないうちに孤独に飲み込まれてしまうか、親密な人間関係を残せるかを、個人の資質だとほったらかしにするのではなく、社会的な制度や身近なコミュニティが、出入り自由な場を提供できるようになっている必要がある。

そして、その場を適度に還流させながら維持できる人材が必要で、誰もがその場に対して役割を持てることが理想になるのかな。

さまざまなコミュニティが必要になると思うけれど、どのコミュニティにも旗印になるビジョンが必要になるだろうと考えている。