ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

自分を救ってくれたもの・こと

太田光さんが語った話が良かったので、ちょっと自分も自分語りを。

太田光が自ら語った「ネットでなくてテレビだからこそ伝えられること」~川崎20人殺傷事件について~(水島宏明) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

 

私が感動した創作物

太田さんの感動したピカソの絵画。

自分にとっては、東松照明の『ゴールデン・マッシュルーム』であったり、ケン・リュウの『紙の動物園』だった。

 

『ゴールデン・マッシュルーム』は、太田さんと同じく写真を理解したわけではなく、「写真でこんなことしていいのか」、「表現の無限さ」を感じた。

『紙の動物園』は、読みながらボロボロ泣いたし、読後1週間くらい思い出し泣きした。

 

人が感動する対象は様々だし、強弱もそれぞれ。

最近感動したことがないと思っているなら、やっぱり自分をいろんな創作物に接触させることでしか、感動は得られないんじゃないかと思う。

 

まずはファッション感覚で

自分は20代の頃、ファッション感覚で美術館巡りをしていて、それがかっこいいという感覚だった。決して、いちいちアートに感動していたわけではない。

そう思うと、若気のバカ丸出し状態ではある。

 

でもそうやって芸術作品鑑賞に自分を慣れさせることがなければ、自分と東松照明との出会いは100%なかった。

ファッション感覚で芸術作品を見慣れていたから、東松照明の写真が持つ異様さがわかったのだと思う。

だから感動できる/できないも経験だと思う。

ファッション感覚でアートを楽しむことを馬鹿にすることはできない。

ただファッション感覚は、入り口に過ぎないということを分かっておく必要がある。

 

感動できるのは、何もアート作品だけとは限らない。

古典演芸で思いっきり感動してもいいし、美味しい料理や飲物でも感動するだろうし、若い人たちVR体験やYouTubeで感動しているのかもしれない。

 

感動することとは

私の感動したと思える尺度は、その感動との出会いから1~2週間はその出会いが頭から離れないくらい強烈に頭に焼き付くなにかがあったとき、「あれは感動だったんだなぁ」としみじみ思い出すレベルを指している。

もうちょっと書くと、娯楽で楽しむことと感動の間には、別のレイヤを超えていく感じがある。

でも娯楽で慣れ親しんでいるからこそ、感動と出会えるとも思う。

 

(余談)自分を触発してくれるもの、それが感動

自分が感動した熱量の何千分の一、いや何万分の一かもしれない希薄な熱量だけど、でも自分もその感動の熱を誰かに伝えたい。そんな気持ちから、私は創作活動に入っていきました。

創作活動が苦しかったり、プレッシャーだったりすることもあるけれど、誰かに作品を見てもらえる機会をつくると、活動を続けていてよかったなと思うことも、あったりなかったり。

 

おわりに

テクニックに感動するのもありだけど、もっと根源的な創作物に宿っている思念に感動できるよう、これからもさまざまな創作物に接して、アンテナを感性を更新していきたいな。