ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

正解ではなく

昔、写真の先生に「君がみているのは、テクスチャなんじゃないか」と言われたことがありました。写真を撮り始めた頃からアンダーで撮る癖があったので、大きくは間違っていないのです。その言葉は正解であるようで、でも何か違うような気がしていました。
 

存在の本質とは?

去年の夏頃、「自分はプシュケを撮りたんじゃないか」とふと思ったのです。存在そのもの、あるいは存在の本質を写したいと。
たとえば、ハトの本質は?と聞かれたら、とても難しいです。
しかし絶対的な正解が存在するという訳ではなく、自分なりの「ハトの解釈」をすれば、これこそがハトの本質というモノが見つかるような気がしています。
それは「クルックー」というハトの声かもしれないし、ふっくらしたティアドロップの形をした翼でもいいし、翼を広げて空を行く姿もまたハトらしい。
要素の分解でたどり着けるのか?という疑問もあります。たまねぎのコアを探したいと、皮を剥いていっても何も見つけられないでしょう。
つまり自分なりに被写体を解き明かすことが重要なんじゃないかと。そして、それを適切に表現できる手法を選ぶことも重要でしょう。本質を抜き出したいと思うなら絵を描く方がいいかもしれないと、時々思います。

 

調和と目新しさ

写真の本質とは、何を写して何を写さないかという選択眼だと思っていますが、写真という画像に切り取られる要素の間で調和が取れていることも大事でしょう。
しかし調和しているということは刺激が薄く、それだけ凡庸でもあると思うのです。
一方で目新しさのみで表現することは、避けたいと思っている節があります。自分が写真を始めて以来、魚眼レンズ、空玉レンズなど、パッと目を引きつける写真が撮れるレンズを見てきましたが、今ではインスタでも使っている人に出会わなくなってしまいました。
画像加工ソフトで、そういった写真が作れるようになった面が大きいとは思いますが、技巧的面白さで作品をつくるのは、あまりいい道とは思えません。技術は陳腐化するから。
 

写真加工

ここ最近、写真の技術的側面である写真加工で遊んでいますが、写真加工もやり過ぎてしまうと、美麗さという脂でコテコテの見苦しい写真になっているのではないかという危惧もあります。 自分が探したいと思っている、本質を見失うという意味で。
元来、写真加工はやりすぎることが多く、見た目に派手になりやすいのではないでしょうか。特に加工に慣れない内は、見た目に分かりやすい変化を付けたくなってしまい、派手に加工してしまう。そして加工にかかった時間だけ、作者のその写真への愛は強まると。
私は意固地になってしまう面があるので、あんまり重い愛を込めすぎるのも、自分の写真を柔軟に見ることができなくなるのは、困ります。
写真加工は、自分の見たい世界を写真画像に落とし込むためや、画面の中の視線の動きをスムーズにするためのもの。 自分なりに「自分のイメージする世界」というゴールをつくらないと、作業という迷走で疲れたところがゴールになってしまいます。
自分のイメージする世界は、習作を真似ていって、写真加工を身につけていく上で見つかるんじゃないかと淡い期待を持っていますが、それも今の自分の写真が迷走しているような同じ状況に追い込まれていったら、しんどいだろうけれど。
 

おわりに

被写体の本質を探すことも写真加工をすることも、終わりのない相対的な正解を探し求めるのではなく、どこかの地点で「自分の中では、こうでなければならない」と言うような断定が必要なのでしょう。
それが世界にとって新しい一歩になるなら、それこそがアートなんでしょうね。
写真は結局好きか嫌いかで決まると書いている人もいます。一般的には、それでいいのかもしれません。いいねがたくさんつくと、いい写真と思えるように。
でも私は、写真の歴史の文脈の中で何を引き継いで、何を付け足せるのか、そのチャレンジがあることを大事にしたいと思っています。