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ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

写真は頭を使うか?

アドバイスの難しさ

 
 先日、友人たちと公園を歩いているとき、友人の1人が写真を撮りたくなったらしく、写真のアドバイスを求められた。
 竹藪の後ろには太陽。その間に曲がった道があり、竹の直線と道の曲線を活かした写真が撮りたかったらしい。
 その言葉の表現は的確である一方、私にとってはありふれた光景に見えていた。
 友人は私にカメラを渡し、「撮ってみてよ」と言った。私は膝を落として、視線を落とし、竹藪を抜けてくる光と、竹の直線を撮った。が、友人からしたら期待外れだったと思う。注文に応えない料理店みたいな、塩対応だったからだ。
 

着目点は人それぞれ

 
 友人の注文に応えるなら、視線は上げるべきだった。シャッターを切るときも、友人の撮りたい光景を撮るならそうだとは思ったが、視点をあげるにはドローンでも持ってこないと無理だ。現実的にできることではなかった。
 そして、私がちょっといいなと思ったのは、竹藪を抜けてくる陽の光だった。まあうまく撮れたとは思わなかったけど。
 同じ場所に立っていても、見えている光景が同じでも、興味がひかれる箇所は、人によって違いがある。
 

正解はない

 
 写真を撮るときに、ちょっと視点を変えるだけで、ぐっと写真が良くなる「ティッピングポイント」というものがある。
 こういう雰囲気の場所は、こういう写真が最大公約数になるということもある。
 でも、そうでないから駄目な写真になってしまう。ということでもない。そういうことは、勉強ができた人ほど、撮る写真に正解があるという場所から考え始めてしまうのかな?と長年思ってきた。
 自分の眼で見た光景を、意図した範囲、角度、余白などいろいろあるが、意図しているから優れた写真になるという考え方を外すのには、自分も時間がかかった。
 まったくランダムに、意図しない光景を大量に撮っても、写真の編集段階で、自分の意図が見えてくることが分かったとき、自分の意図だけでは撮れないという、何か別の扉が開いた感じがあった。それは断片を編集することが、大事なのだということかもしれない。
 そういうことを経験するのは、前段階としての撮影経験が必要なのだろう。
 写真についていろいろ勉強するのは、あくまでも失敗を減らすためのものであり、成功するため、成功を保証するためのものではない、ということが分かるのにも、時間がかかってしまう。
 あるいは、そういうことに気付かないまま、写真への興味が尽きてしまうか。
 

写真は頭を使うか?

 
 シャッターを切る前に考えることは、あると思う。それはカメラを持つ前かもしれない。
 それは、誰に写真を見せて、誰が良いという写真にしたいのか、ということだと思う。相手が1人の場合もあるだろうし、SNSでたくさんの人に「いいね!」されたい場合もある。もちろん、自分が満足できればそれでいい、ということもあるかもしれない。
 「シャッターを切る前に考えるのは、構図とかじゃないの?」と言われそうだが、構図は光景を見て考えるというより、歩き回ってパッと見つかるものだったり、視線に飛び込んでくるもので、無意識に近い一瞬の判断だと思う。例外はスタジオ撮影のような、つくりこみが必要な場合は、熟考が必要になると思う。
 「その一瞬の判断ができないんだよ、構図を知っているのと知らないとの差だよ」と言いたい人もいるかもしれないが、構図なんて10パターンくらい。それくらい、ウェブで調べるか、本を読むなりして、身につけましょう。それが、そんなに大事なことなのだと思うなら。
 
 どんなジャンルの芸術にしても、道を極めたいと思っているなら、型は知っておいたほうがいい。How To本でも、理論の本を読んでもいい。
 でも、たまにいい写真が撮れるくらいで「楽しみたい」なら、細かいことは気にせず、ひたすら量を撮ったほうがいい。撮った後の写真を見返して、「自分はこういう写真が好きなんだな」という見当を付けられるようになったほうがいい。
 頭を使うべきは、撮った写真の好き嫌いの見当をつける時に、「なぜそう思うのか」ということだと思う。
 

好きなパターンを見つけることが大事

 
 初心者が注力すべきことは、自分の好きな写真を見つけることだと思う。自分の好きな写真を撮る写真家、写真仲間を見つけたら、模倣することができる。あるいは、自分の感覚で撮った写真に、誰も撮っていない理想を見つけたら、それを追求するのもいいと思う。
 つまり、これは自分が好きな写真(真似たい写真)、あれは自分の好きではない写真という、「判断を繰り返す」。その反復が多ければ多いほど、目が肥えていく。
 目が肥えたら、後は自分の理想に向かって、どれだけ近づいていけるか。それは上級者も初心者も、同じだと思う。
 そこには、たまにまぐれでいい写真が撮れてうれしいという、お楽しみ要素は減っていくことになると思う。でも私がそこで大事だと思うのは、撮れる写真の平均が上がっていくこと。
 いつまでも楽しく撮っていたいというなら、それもひとつだと思う。でも、よく分からないなりにでも、これは良くて、これはダメ、という判断をしないまま撮影を続けても、上達はしないと思う。
 

どちらを選ぶつもりで撮るのか

 
 写真には、きれいな写真と、いい写真があると思う。
 カメラの性能が進歩することによって、カメラに疎い人にも、きれいな写真が撮れるようになってきた。ただそれだけ、きれいなだけの写真を撮れる人は、あまりにもたくさんいる。
 写真の世界は、お金にモノを言わせれば、高性能なカメラできれいな写真が撮れるし、美しい光景やモデルさんを用意できれば、被写体の力で写真が上達した気分は味わえる。
 ただそれで、ずっと長く写真を続けられるほど、楽しいと思えるかどうかはわからない。
 
 いい写真は、カメラの性能で決まる部分が減っている。あくまでも個人の審美眼によって、写真で訴えたいこと、伝えたいことを追求していくことが大事になる。
 いい写真は、要約した言葉で説明できなくても、なぜか心を動かされてしまうようなことがあったりする。優れた文学作品が、要約されてしまうと、色あせたものになってしまうようなことが、いい写真でも起こりうる。
 そして、写真を長くやっていくなら、両方を備えた写真を目指していくことになる。
 

おわりに

 
 素敵な光景を前にして写真を撮るときに「考える」というのは、目の前の1つのハードルを飛び越えるための集中力を発揮するという、構図のような撮影術は無意識に近いレベルで判断して、自分は何メートル走るつもりなのかという、どういう写真を目指して撮るのか、ということなのかなと思う。