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ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

写真散歩という行

 ここの所、自分のする頻度は下がっているのですが、それでも続けたいと思っているのが、写真散歩です。私は地方都市に住んでいて、商店街や駅があって、人の流れが街の中にあります。できればそういう人の流れのあるところを歩いた方が、私は写真を撮りやすいです。同じ瞬間というものが無くて。
 私はそういう写真散歩をお勧めしたいと思ってはいますが、誰もが写真散歩を楽しめるとも思いません。その人が持つ性格に由来するところが大きいのかもしれませんね。現にいいカメラを持っている友人たちでも、写真を撮るのは旅行に行ったり、何かイベントがあるときだけのように見えます。
 それでも私が写真散歩について書きたいと思っているのは、コツさえわかれば写真散歩するだけで、まるで気分的な頓服薬みたいに、いい気分になって帰ってくることが多いからです。もしかしたら、帰ってきて写真をパソコンに取り込んで、「いい写真が撮れたぞ」と思うのは、おまけかもしれないくらいに撮影が楽しいです。
 
 私の写真散歩の基本は、ノーファインダーです。つまりファインダーを覗いて撮るということをほとんどしません。割合でいうと95%くらいノーファインダーです。そしてシャッターを切るときも、被写体を見ずに撮っています。視覚に頼ってしまうと、街にある建物や看板、人の動きを感知する感覚がうまくは働かなくなってしまうと感じているからです。目で見るより、「カメラの撮像素子に写る撮影範囲はこんな感じかな」というイメージで撮る撮り方です。なので、必然的に失敗している写真を量産することになります。100枚撮って、良いなと思えるのは5枚くらいだったりします。
 でもノーファインダーだと、街の中に自分が入っていく感じがあります。ファインダーを覗くと、周囲に対しても威圧的な感じがして、街の中、ヒトの流れに溶け込めない感じがするので。
 シャッターを切るときは、考える前にシャッターを切ります。いい写真を撮ろうとすると、いい写真は逃げていく傾向があると思っています。
 理屈でいうなら、写真散歩をする頻度を上げれば、写真がうまくなるとか、作品撮りが出来るということになりますが、そういうことも私にとっては邪魔をしてきます。ただカメラと一体になって、街や人の流れに一体になって、何かいいと感じる前の瞬間にシャッターを切ってしまうということに集中しています。
 
 最近、「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という本を読みました。名越康文さんという精神科医の方が書かれた、仏教入門という印象の本です。この中で、名越さんはまず「行」をすることが、「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」を理解する基本だと書かれています。「行」といっても、滝行をしたり、護摩行のような苛烈な行をする必要はなく、ただ姿勢を整えて深呼吸をするだけでも、行になると書かれています。
 そして、行を行うときは「行の効果や意味を考えない」で、「ただやることが大事」。言葉や理論で理解して、下手に知識を積み上げると、行をすることで得られる気づきを、分かる言葉の範囲内に留めてしまうと書かれています。
 これを読んで、私にとって写真散歩は、行なのかもしれないと思いました。写真散歩をすることで、毎日の調子が分かり、一時的な感情に流されず、自分でいいと思えるものを選べる力が付いてくるのかもしれません。
 ブログを読み慣れてくると、言葉を使うことの比重が高くなります。個人的には、この比重が高くなりすぎると、生きることに不具合が出てくるような気がしています。それは、言葉は何かを否定するためにあるような気がしているからかもしれません。何かを否定したい気持ちが高まってくると、そこから逃れるのも難しくなります、そして生きるのがしんどくなります。そういう状況から転換するには、目や耳で非言語なものを肯定的に受容する、ということが手っ取り早い方法かと、私は思っています。
 
 自分の死生観はあまり考えたことがないですが、「いい写真とは何か」を考えるには、写真散歩のように街に溶け込んでいくような感覚で、枚数をたくさん撮ることが出来るのは、なかなか気に入っています。
 住み慣れた町でも、初めての街でも、街の中に見える面白さに気づけると、写真散歩が楽しくなりますよ。