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ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

「へたうま」を目指して

 私の写真はそれなりに経験を積んできたけれど、プロとして活動しているわけでもないので、特別うまいわけでも、才能があるわけでもないと思う。でも、昨日カメラを買いましたという初心者には負けない写真を撮れると思っているし、旅行やイベントの時だけカメラを持ち出す人にも負けてはいないと思う。
 要するに自分の撮る写真は、特別上手くもないが、かと言って下手でもない、まさにアマチュアだと思っている。では私の思う写真の上手さとは、何を指しているのだろう。ちょっと考えてみた。


 それは写真を見て、構図や技術だけで説明の付かないような写真でいて、鑑賞者に理解されたとしても、その写真の要点を省略して誰かに伝えることのできないような、言葉で説明しきないけれど好きとか、印象に残るという感覚になれる写真が、上手い写真なのではないかと思う。
 そういうことを可能にするのは、ある程度多く(一度に最低でも10枚とか)の写真を見るという、鑑賞者から全身全霊で写真に没入していくことで、見えるものがある場合が多いように思う。
 読んできた本の中には、「上手くならないように上手くなれ」と書かれていた本もあった。技術だけで撮るようなことになってはいけない、という戒めみたいなものだと思っていたが、私の思う写真の上手さは技術だけでは説明できないように思う。

 

 たとえば絵を描く中で、手で円を描くとして、すごく練習して真円が描けるようになったとする。それは高い技術のように思えるし、鑑賞者もきれいだと感心するかもしれない。きれいな絵画や、癒される絵画というものを見たがる人が一定数いるので、真円の美しさを喜ぶ人も一定数いるのではないかと思う。しかし、いくら真円を描くのが上手くても、真円が並ぶだけの絵画では、たくさんの作品が並んだときに、鑑賞者に単調さを感じられてしまう可能性が高い。
 では手書きの少々いびつな円はどうか。真円に比べて価値を持たないかというと、そんなことは無いと思う。円に手書きの味が加わることで、たくさん作品が並んでも、飽きにくく感じさせることができるかもしれない。

 描かれている絵画の雰囲気にもよるとは思うけれど、いびつな円と真円は、描かれる場面によって持つ価値が異なると思うので、どちらかがすばらしい円であるとはならない。
 問題は、絵の中で円を使って、見る人に何を伝えたいか、表現したいかだと思う。その目的意識が真円でなければならない、あるいはいびつな円でなければならない、という理由がはっきりしていれば、どちらかの方が価値が高いということにはならないと思う。
 もっとも、描いている途中に思うのは、どちらがしっくり来るかとか、どちらが面白いかということになるかもしれないけれど、どちらでもいいという判断保留のままでは、手は動かないはずだ。ぼんやりとでも、場面場面で意識の選択を繰り返していくことになると思う。

 

 写真で言うなら、構図やカメラの設定などの技術は、教科書的なものを読んで勉強して、自分で練習すれば身につく可能性が高い。網羅的に勉強したければ学校に行ってもいいし、趣味の写真教室でも技術はそれなりに教えてもらえる。
 しかし何を見る人に伝えたいか、何を表現したいかということは、誰かから教わるものではないし、教えられる先生もいないのではないか。
 もちろん、Aという写真が好きなら、A類縁する方向の写真を目指してみてはどうかということは、先生の知識に蓄積された写真の歴史、これまで接してきた生徒たちを見てきた作品づくりの経験、今の流行の傾向などから示されるとは思う。
 先生が撮られた写真を見て講評することは、ある程度経験を積めば出来るようになるかもしれないけれど、大事なのは撮られた写真や、そこに含まれる技術を見るだけでなく、写真に対する考え方や価値観をくみ取ること。このあたりが、先生の限界だと思う。
 人間の中には、この下の層に、どう在りたいか、生に対する態度、姿勢があり、このことに先生が気づけるかというと、かなり難しいように思う。
 自分で、そういう見えないけれど在ること、に気づけないと、写真は表面的な技術の上手さに留まってしまうのだと思う。森山大同をはじめ、多くの写真家が、とにかく量を撮れというのは、それに気づくための手段が、量からしか生まれないということを知っているからではないかと思う。

 

 私は物事の外側から作っていく人間だと思う。しかしそれでは中身が空っぽだ。技術で外側から作り始めて、中身を深めていけるようにならないと、薄っぺらいまま。逆に内発的動機で物事を作り始める人もいるけれど、こちらは外側を上手く作れるように極めていく必要が出てくると思う。
 スタートは、どちらから始めてもいい。でも技術を持つことで、自分の在り方を見失うようなことになっては、本末転倒。


 最初は誰も「へたへた」から始まって、「うまうま」を目指すのかもしれないけれど、「うまうま」は真円のところでも書いたように、作品の量が多くなると単調になることが否めない。だから目指すべきは「へたうま」だと思う。悪手は「うまへた」で中身がない。


「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、目に見えないものを見えるようにすることである。」パウル・クレー

 

 「へたうま」は、「うまうま」からでも「へたへた」からでも目指せると思う。自分の在り方に気づき、自分に見えている世界を作り出せるようになることが、第一歩なのかな?と思う。