ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

M×U ― 砂を折る ― Vol.21

これ以上因数分解できません
「つよさ」だって「やさしさ」だって

M×U ― 砂を折る ― by 小出マワル@BoundaryRime & うさうらら@usaurara

 

 場所は和歌山城の敷地にある動物園。和歌山城に動物園があるとは知らずに行ったので、この写真はカメラに付けていた50mmレンズで撮ったが、コミカルな背景とコミカルなツキノワグマが写っていて、割と気に入っている。
 カメラやレンズを複数持っていると、いろいろ使い分けたくなるが、アマチュアの自分がするべきことは、いい被写体が目の前にあったときに、内野安打でいいからヒットにできる写真を撮れる、運動神経というか、直感が大事なように思っている。
 だから自分のお気に入りの道具で撮るならそれが一番だと思う。道具は写真を撮るための手段でしかなく、目的は撮った見た人が感銘を受ける写真を撮ること。
 
 他人に、自分が使っている道具をどうこう言われる筋合いなんてないし、どうしてその道具を使うのか説明せよと言われても、趣味の話なら「それに答える必要はない」という答えも1つだと思う。(まあ人間関係はまずくなるかもしれないが。)

やたら説明を求めてくる人間は、説明の中のあら探しをしたくて、うずうずしている人間が多い気がする。仕事じゃないんだから、聞かれたら説明する義理があることを押しつけられる必要はないし、良いところをアピールせねばと強く思う必要もないと思う。
 
 説明されれば、相手との相違をわかりあえると思ってしまうのは、言葉で意思伝達できるという考え方が、一般化されたからだと思う。日本語が互いに通じると思っているから、カメラと言えば光を撮るものだという共通の認識があり、フィルムにこだわる人間と、とデジタルを使っている人間の違いは、理解し合えるのではないかと思っているかもしれないが、そのズレはカメラという共通の認識があるからこそ、見えていないのではないか。
 ネガフィルムを見て、焼く写真を決めるということだけでも、いい写真の選び方が、デジタルとは全然違うと思う。そして紙に焼いて、像が浮かび上がってくる感覚も、デジタルでは経験できない。
 そういうことは私には経験が無く、使用できる機器が現存している間に、1度は経験したいと思っている。
 でないとフィルム写真の良さが、雰囲気だとか、いい色が出るという、視覚で判断できる言葉に留まってしまって、現像とプリントの経験から出てくる言葉からは遠くなって、デジタルとフィルムのズレを、誰かとは共有できないのではないか。
 
 「つよさ」も「やさしさ」も、日本語が通じるなら、話の中から分解して純度の高いものを取り出せる気がする。
 昔の日本では石文という文化があって、河原などに行って、ゴツゴツした石、ツルツルした石、黒いの白いのなど石を選んで拾い、相手に渡すことで気持ちを伝える文化があったそうだ。そこにあったのは、ぼんやりしたコミュニケーションを、自分の想像力で補って、やりとりするということだったのだと思う。
 言葉で他人に意思伝達できると思える教育のおかげと、昨今のグローバル化が世界に浸透する中で、純度の高い言葉を使えば理解できる風潮があると感じる。
 しかし外国人相手に、日本語で言うところの「つよさ」や「やさしさ」を説明することが、相当難しいように私は思っていて、そういう文化を越えて説明するときにあるズレが、日本人同士の日本語会話では認識しづらいのではないか。
 
 石文でやりとりできた時代には考える必要がなかったかもしれないけれど、世界の多数派の相互理解の方法は言葉を尽くすことだけでなく、多人数で話し合う方が分かりあえるのか、1対1で話し合う方が言葉が出やすいのか、部屋の明るさは?など環境をコントロールすることを考える必要もあるし、個人はプレゼンテーション能力を高める必要もあると思う。
 ただ技術や手段は、型を導入すれば解決することだけではなく、「つよさ」や「やさしさ」を分解するのは難しいけれど、それを大事な人に教えて欲しいと言われたら、わざわざ言わねばならぬかという虚しさを乗り越えて、お互いの立場から歩みをあわせていく方法をとるしかないのだと思う。