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ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

M×U ― 砂を折る ― Vol.11

囲われていながら焔は保育器の
赤子のようにおぼつかなくて

M×U ― 砂を折る ― by 小出マワル@BoundaryRime & うさうらら@usaurara

 

 場所は、横浜みなとみらい。たぶんゲート型になっているホテルの前だったと思うのだけれど、これは2007年の写真。もう10年近く前なので、記憶が薄れている。
確かみなとみらいで、12/24か/25に全館点灯というイベントをしていて、みなとみらいのビル全部の窓が明るい、というタイミングに同日開催されていた、キャンドルナイトを撮ったものだと思う。
 しかし、これは初代一眼レフを買う前の、パナソニックコンデジで撮った写真だ。上手さもなく、もの寂しい写真だと思う。
 
 キャンドルの焔ひとつひとつは、風が吹けば消えてしまいそうな、弱々しいものだけれど、こうやって容器に入れられて、たくさん並ぶと心強い明かりに思える。
 そういえば、以前詠まれていた熾火(おきび)も、ひとつでも暖かさを伝えてくれるけれど、焚き火で残った熾火たちは、暖かさとともに記憶や物語を、より強く大きく伝えてくれるような気がする。

 この写真もそうだけれど、そういう群の状態から離れて存在しているのは、心許ない。
離れようと決断して離れることも、気づいたら離れていたこともあるけれど、やっぱり群の中にいた方が、幸せだったのかもしれないと思い返す。
こういうことを思うのは、過去には群にいたという記憶があるからだろう。人間も動物で、古来から群れて生活していた。
 でも生きていく中で、普通とされる五感の働かせ方や、考え方に疑問を抱くようになったら、群からは離れ始めている。
「りんご」と言えば?と聞かれて、思い浮かべる「りんご」は、赤かったり、青かったりする。紅玉だったり、ジョナゴールドだったり。一般的には、そういう違いをひっくるめて、「りんご」で理解し合えると思っているようだけれど、この先の世界は、そういう差異が先鋭化していくような気がする。差異を乗り越えられなかった、宗教戦争のように。
 外見や、言語、宗教が違うだけで、同じ人間。1人1人は、そんなに強くないはずなのに、なんとかならないのかな。