読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

新しく作ってみる時に

 何か新しく作ってみたいと思ったときに、これまでに世の中にでている作品にふれることが大切だ、という感覚は私の中にもあったし、一般的なことなのかなと思う。

 例えば文章を書く人であれば、古典や歴史書、著名な文学作品は国内の作品から始まり、海外の作品へも広がっていくような、一生かけても読み切れない程の、読むべき作品が待っていることになる。
 新しいアイデアを生むには、2つ以上のアイデアを掛け合わせることが大切だという定説も聞いたことがあるし、体験するべき作品をどんどん経験に詰め込んでいくことで、新しいモノが作れるようになっていく、という姿を想像できる。
 しかし、そういうものを経験しないと、アイデアを生み出せないと思ってしまうと、それはひとつの学問的な追求のようにも思うし、一生かかっても体験できそうにない、上限のない経験を求めてしまい、新しく作るということから遠ざかってしまう気がする。
 実際、作り手として、古典を知ることが大切だという姿勢を見せている人も、自分の興味のある世界を掘り下げたり、気に入った作家の作品からつながっていく世界を見ていくことを指して、古典の大切さを示しているのであって、全世界のすべての作品を網羅することを目指してはいないと思う。
 どうしてこんなことを書こうと思ったかというと、ある音楽家の人がTwitterで「古典を知らない人が作るモノは、だいたい似通ったモノになる」という趣旨のツイートをしていたからだ。自分の音楽を聴く観点は少ないので「アマチュアの作るモノが似通っている」と思ったことがなく、「そんなこともあるのかな」くらいにしか思わなかった。

 新しいモノの明確なイメージがあったり、もやもやした何かがある時には、古典を訪ねるのは迂遠だと思う。
 新しいと思えるイメージがあるというのは、ある程度古典を知っているから新しいと思えるはずだ。そういうときは、確か千葉雅也さんが「動きすぎてはいけない」の中で「先行事例を調べることは必要だけれど、調べすぎるのは良い結果を生まない」(意訳)という言葉がいいと思う。先行事例を調べるには、高い検索能力が必要になるので、基礎的な学習能力が備わっていないと、できないことだとは思う。
 大事だと思ったのは、調べた事例に影響されすぎて、自分の新しいと思っていたアイデアが、先行事例に引っ張られてしまうという悪影響が出てくる、と言うことだと考えている。
 もうひとつ、もやもやしているときは、とにかく今までの自分の経験を信じて手を動かして、形を与えてみた方が面白いと思う。下手に先行事例を調べて、頭の中でもやもやに形や答えを与え、スマートに振る舞うこともできるかもしれないけれど、私の中では踊るアホウになった方が、楽しい気がする。できあがったモノを誰かに見せて、「これは過去に事例があるよ」と言われたら、その作品を見てみればいいのではないだろうか。少なくとも、過去の自分の経験だけで先行事例と似たものが作れたなら、その先を目指すこともできる気がする。
 とまあ、古典や先行事例を見過ぎない方がいいということを書いてきた。そして思ったのが、音楽家の方が本当に言いたかったのは「ネットやSNSをやりすぎたり、TVを見過ぎると、本人も知らないうちに、似通ったことをする人間になりやすい」ということなのかもしれない。
 人間だから誰かに影響されたり、影響したりしあっていると思うけれど、それが過剰になると、気づかないうちに生きづらくなったりするんじゃないかなと思う。