ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

ブログは個人的アーカイブ?

アーカイブでも、ログでも記録でもいいのだけれど、何かが残る、残せるということは、記録媒体つまりハードディスクやメモリーの値段が下がって、容量が大きくなったのと、無関係ではないと思う。
もちろん昔から紙に書いて残すこと、レコードに録音すること、フィルムで撮影することなどもあった。記録で後世に残せるということは、良いことだという共通の認識が、人間にあるような気がする。


 
保坂和志は、音楽はレコードや楽譜が出来る前から存在していて、連綿と受け継がれてきたのだから、特に記録なんて無くても、音楽が演奏されただけで、空間や人間の記憶に演奏が残って、音楽が存在したことが空間を凹ませて存在し続ける、と言うようなことを書いていた気がするのだけれど、私の記憶で書いているので正確ではないかもしれない。しかし、保坂和志は何でも記録を残せばいいわけではない、ということは明言していたと思う。
 
戦災遺構や震災遺構というのは、その記録を残すことで、重要な役割を果たしていると思う。広島の原爆ドーム原爆資料館は、核兵器を実戦で使用することを抑止し続けるのに、十分存在意義を果たしていると思う。
戦争や、千年単位で起こる地震で、こういう被害がでたとか記録が残っているおかげで、当時何が起こったのかということは、現在でも検証され続けている。
凄惨な記録だけでなく、地域の郷土史なども含めて、公的な記録はできるだけ残っていた方が、過去が検証できるので、良いのではないかと思う。


 
しかし、個人的な記録についてはどうなのだろうか。
たとえばSNSSNSの会話やデータは、ビッグデータとして売買されている。あまり使っている方はあまり意識しないかもしれないが、日常会話が金になっている。
そういう大きなところでは個人のデータが活用されているが、個人的な記録を時折読み返して、何か将来に役立てようという人は、どれくらいいるのだろうか。私の回りにそういうことをしている知り合いはいないと思う。
 
ブログは自分が書いていて思うのは、普段のエントリーは1回読まれたらそれで終わりだ。保坂和志のいう音楽と同じで、一回読めば、読んだ人の世界を凹ませて、それだけで書いた意義があるのかもしれない。
Tipsについての記事は、検索されてよく読まれるけれど、そういう人は当該記事だけ読んで他の記事は読まない一見さんが多い。
 
少なくとも普段私の書いているものは、こねくり回した世間話のようなものに近いから、永続的に残ることを望んでいるわけではないが、その1回を提供するために、記録が残った方がいいのかもしれない。
 
記録を更新し続ければ、個別のエントリーは過去へと押しやられて、簡単に目に付かないところへ行ってしまう。
だから記録が残っていくこと自体に、そんなに神経質にならなくても良いのかもしれない。そしてウェブサービス会社が、ある日突然、それまでのデータと一緒に無くなってしまうことだってある。
 
ここまで考えて、最近一回性を重要視して、アーカイブしない「ねとらじ」をやってきたけれど、ブログでも一回性は十分あるし、ブログで全然良かったのでは?という気持ちになってきた。
 
ブログはアーカイブとか、記録ではないのではないか。データはたいてい残るけれど、誰も(もしかしたら本人も)検証(読み返し)なんてしない、無意味な積み重ねなのではないか。
 

 
そうなると、なぜブログを書き続けているんだろう。
虚空に向かって「誰かに届けばいいな」と紙飛行機を飛ばし続けるような行為は、紙飛行機を折って飛ばし続けるエナジーを使ってゆき、使ったエナジーを他から集められないと、いずれ書き続けられなくなる?
 
でも「自分はここにいるよ」と言い続けないと、誰も気づいてくれない、忘れられてゆく世界なんだ、たぶんここは。
 
自分が誰かに伝えたいと思える内容は、どれくらいあるんだろう。伝えたい内容がなくても、続けられるだろうけれど、それだけじゃ私は面白くないんだろうな。
小さい実験だったり、粘土をこねて何か作ってみたり、多分そういうことをしていきたいんだと思う。それで誰かが、どこかで、笑顔になってくれるのではないか、と妄想しつつ。