ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

すべてが見える?

写真には全てが写ると聞かされて「怖い」と感じる人もいるようだ。
写真を撮るときに「感情を込めて」という人もいる、そういう感情が写るから、と。

 

しかし、感情が撮った写真に写ったりするのは本当なのだろうか。

 

ハイキー(明るい)な写真を見て、気持ちが明るくなったり、アンダー(暗い)な写真を見て、深刻そうな顔になったり。ということを否定したいわけではないけれど、仮にそういうことが写真における感情表現だとしたら、あまりにも表層的すぎないだろうか。

 

私は一時期、すごくアンダーな写真を撮っていたのだけれど、それは私にとって良い色の出方だったり、良い黒がある、と思っていたからアンダーにしていたのであって、気持ちがひどく沈んでいるということでは無かったと思う。一時期は、自殺するんじゃないかと見られていたこともあったようだけれど、そんなことを思ったことはないし、今も生きている。

 

そして今は、露出を極端に変化させることはしなくなった。明るくも、暗くもない写真を撮るようになった。
それも性格が変わったんだ、と言いたい人もいるかもしれないけれど、ただ単に私にとってアンダーは、良い色ではないと感じるようになったからに過ぎない。
今でもアンダーに撮ることは出来るし、自分なりの良い色の感じは覚えていて、それを再現することは、そんなに難しいことではない。写真が変わるように、性格がころっと変わるだろうか。

 

写真には全てが写ると言ったのは、アラーキーである。あの人ほどの天才になれば、そういうことを言えると思うし、大量の写真を見続けているから、こういう写真を撮る人はこういう性格という、類型を体系的につかんでいるのだろう。
でも、写真を仕事ではなく、趣味としてやっている普通の人に、写真を年間何万枚も見るということはないだろうから、写真に全てが写っていても、見えないのではないかと思う。

 

たまに感覚が鋭いと自負している一般の人がいる。そういう人が写真から感じとることは、この写真の気持ちはこうですよねという答え合わせとか、性格診断をしているような感じがある。
そういうふうに、観察者が撮影者の真の気持ちに正解をしないと、写真を見たことにならない、ということは全くないと思う。そのような発想になるのは、学校教育のせいだと思う。作者の気持ちを述べなさいというような。

 

一般の人にとっては、写真を見て自分が感じたことを収める引き出しの数を増やせることが、大事なのだと思う。それは写真に写っている全てを見ることができる必要もない。
展示のコンセプトを十分打ち出していない写真は、技術的に見ても良いし、感情的に見てもいい、たいていの人はいろいろな視点で見て、好きか嫌いかに落ち着くと思う。
ただし撮影者が写真の「ここ」を見て欲しいと思っているなら、「ここ」を見てもらうための写真技術や、文字でコンセプトを明確に伝える必要があると思う。

 

私は写真はそれなりに撮れるようになったけれど、写真を見ることは上達してきた感じがしない。だから写真に写っている全て、というものは見えないし、写真に写っていると言われる感情も見えない。画像データに感情は含まれない、とすら思う。もちろん、印象的な撮り方というのはあると思うけれど。

 

ただ最近、ウェブで色々な人の写真を見ていて、撮影者が写真を楽しんでいるかどうか、ということは分かるような気がしてきている。
それは、写真を撮る頻度だったり、見せてもらえる枚数だったり、写真へのこだわり、少しの言葉で付け足されている内容、そういう写真に付随する周辺情報から、私の引き出しに入る写真については、そういう解釈を加えることが出来るようになってきたのかもしれない。
でもそいうことを加味できるのは、初対面の人の初見の写真を見ても分からないから、やっぱり人間関係がある程度ないと難しいことだと思う。
そのうち、初見でそういうことが見えるようになるのかな。