ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

迂遠

意味や内容をハッキリさせようとしたり、言葉をぶつけてスッキリしたり。文字列で言葉の意味が万全に通る、ということを前提にしすぎている気がする。自分が。
もっと行間を読むことも意識しないと、人の気持ちまで仕事のように要点をまとめるように効率化されて、言葉のやりとりが待ち時間ゼロでできることが良いことである、という認識が固まってしまう気がする。
自分の伝えたいことを相手に伝えるときに、効率的に伝えるというのは好ましいことだけれど、私的なブログやSNSでもその効率的であることをモットーにすると、こぼれていく無駄だと思われた何かがある気がするのだけれど、それは捨てて忘れてしまって良いことなのだろうか。
 
書き言葉で十全にコミュニケーションができる、と思いがちな自分に、ちょっと疲れているのかもしれない。論理的に書くことで、読みやすく、理解しやすく、相手に伝わりやすいから、そういうコミュニケーションにあこがれたり、ありがたがったりする人が増えている気がするから余計に疲れるのかもしれない。SNSやブログなどを読んでいると。
 
確かに子どもが虫取り網を持って、昆虫を夢中で追いかけて、道なき道に入っていくような文章は、文字を追いかけてゆくのが大変だし、途中で読むことを止めてしまうことも多い。それでも道だから、辿ることはできるのだけれど、最短ルートなどという効率的なものではないから、読む人間の負担が大きくなる。
 
そういうことを自分もこのブログで書いているのかもしれないな、と時々思う。書いた内容に、はてなスターは付いているけれど、最後まで読んでもらえたのかは、こちらからはわからないし、書きたかった内容が伝わったのかわからない。
ここ最近のこのブログは、とにかく幼稚園児がダンスミュージックを聴いて、手足や身体をバタバタ動かすようなイメージでやってきた。社交ダンスやバレエといった流儀や動きが美しく見える型を追求せず、ただ自分の中に入ってきてスパークする火花を捕まえたいと思っていた。原始的な手足のバタバタこそが、火花を捕まえる手段であり、自分のあるべき姿のように思っていた。
 
しかし、火花を捕まえたという感覚は無いままだ。それは自分が現実的な視覚に頼る割には、感覚的に物事を捉える性格で、論理的でなく自分の感情で即興的に判断しているからかもしれない。
でも自分には書くための論理的な型を学ぶ気もないし、学べるような型は、失敗しないための型であり、成功できる型ではないと思ってところも大きい。
伝統的な芸事のように、守破離で型を越えていけることを否定するつもりはないけれど、そういうことができる人と、できない人がいるということにおいて、仕事をしていない自分は、日常的に論理的になることがないので、守破離することができないようだ、ということを認識しつつある。
 
となると、できるのは現状の追認だろう。
誰かの迷惑にはならないように書いているつもりだし、迷惑に思う人は私の書いたものを読んでいないと思う。そういう範囲で、多作にすること。完成度は結構気にする性格だけれど、質よりも量ということで書くことを続けたいと思う。
仕事を始めたら、多少は論理的になるかもしれない。そのときも、こういう迂遠なことができる余裕があると良いなと思う。

(こういうことを書くと、自分を見すぎているな、と思うけれど。)