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ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

リプライについて考えてみた

雑記

自分のブログは、自分の運動性を確かめるという感覚で書いているので、好き放題書くことにしているのだけれど、書いたことを言及されるという経験はほとんどない。また、自分への反論を読んだこともない。まあそれだけ読まれていないということだろう。言及されたいわけでもないので、それでいいのかな、と思っている。

 

Twitterでは、クソリプという言葉が発明された。何か書いたことに対して見当違いなことを返されることを指しているようなのだけれど、自分が返事をするのも面倒だなと思うコメントを、クソリプ扱いすることも蔓延している感じもあって、エアリプが生まれたように思う。
コメントを拾われたらうれしいけれど、直接リプライしていないので、「リプライを返す義理はないよなぁ」という、自分も相手も不用意に傷つかないで済むという余地をつくるのは、賢いやり方のようにも思うけれど、人間関係が快適なままやりとりできるというのは、幻想だと思う。
まあ現実の人間関係が辛いから、せめてネット上だけは快適でいたいのかもしれないけれど、そうなると普通の人は、今日の天気とか、地震で揺れた話題とか、癒される猫画像とか、誰もが笑う爆笑画像が並ぶことになると思う。
もう既にそうしているよ、という人もいると思うけれど、そういう人は「これはちゃんと話したい」と思うことを、対面でやりとりできる人間関係を持っている人だと思う。

 

自分はそういう人間関係を十分に持っていないので、そういう書きたいことがある時は、SNSかブログに書き出すことになる。
このブログでは、なるべく誰かへの反論めいたことは書かないようにしてきた。ぱっと書き出せる何かを思ってそうしてきた訳ではない。でもそういうことを、どこか不毛なことのように思っていたのかもしれない。まあ他にも理由はありそうだけれど。
自分に矛先が向いていると感じるものに対しては、自分を侵蝕された感じが不快だと書かねば気が済まないようなときもある。僕が反論めいたことを書かないのは、この他人を侵蝕する部分を作りたくないからかもしれない。

 

でも誰かが自分に向けて書いたことを読んで、違和感を感じると表明することは、お互いが持っている背景は違うけれど、ここは私の見解ではこうです、ということを書かないのは、やっぱり不毛でも、SNSやブログ全体が収縮して身動きがとれなくなり、定型句で天気の話しかできなくなるよりは、ましなのではないかという気がする。

 

とはいえ、しょーもない内容の話である。大局にすれば、どちらでもいいような。
しかし、自分以外の人が書いたことに対して思う違和感は、空気中からエネルギーを取り出すような、自分の運動性で雲を掴みにいく話でなく、もう目の前に料理が来て、料理を食べてみて感じることを言ってみるということなので、一言言いやすい。その料理を作れなくても、食べた感想の何か一言は言える。日本でラーメンが国民食になったのも、そういう背景があるかもしれない。手頃な値段で、いろいろな味が楽しめて、自分の好みが主張できるという意味で。

 

獺祭」という有名なおいしい日本酒を飲んで、「うん、これは飲みやすい!」というコメントだと、「もうちょっと何か言えないのか」(飲み物に対して飲みやすいというクソリプだと思う)、ということになるけれど、それ以外のコメントとなると「これは米の味が、云々」「吟醸香がパッと広がって、云々」みたいな、細目の話をすることが自分も経験上多い。
でも考えてみれば、こういったコメントも「これは飲みやすい」というコメントと大差ないのではないか。仮に話を広げて、「これは山口県で作られていて、北陸や東北の日本酒と比較して水の質が云々」とか「ここの杜氏は○○さんで、この飲み口はさすが○○さん、云々」みたいなことになっても、やはり大差がないのではないかと思えてくる。
タレントのYOUが、格好いい男の酒に対するコメントの仕方は「なんかわかんねぇけど、うめぇ!」だと聞いたことがあるのだけれど、これを聞いたときは「なんだかバカっぽいな」と思ったのだけれど、今考えてみるとこれはある種の真理であるようにも思える。

 

それは蘊蓄を語ると酒がまずくなるということもあるのかもしれない。酒を飲むという瞬間に感じる「うまい」こそが、本当に感じられることでそれで十分なのに、「うまい」という言葉だけでは、バカっぽいと思ってしまうことにも問題があるのではないか。何か自分なりに感じた良いことを言わないと格好悪い、という先入観がクソリプの元にあるようにも思えてきた。

 

食べたラーメンに一言いいたいのも、飲んだ日本酒に一言言いたいのも、対面で直接話せる相手がいるなら、「これは、うまい」でも「これは、まずい」でも、時間を共有できた感覚が残せるので十分だと思う。
でも、ネット上で誰かが言ったことを、ネット上で「これは違和感がある」と書くということになると、書いてあることにネガティブな侵蝕をすることになるので、格好悪くなったり、雰囲気を悪くしたりするのだろう。
自分で格好悪いこと、見当違いなことをしたくない、という雰囲気をネット上で共有できることは、ネット全体で見ればユーザー同士で不快なことを減らせるというメリットがあるので、そうした方が雰囲気が良くなるのだからという圧力が発生するのも、SNSサービスが続いていく中でひとつの方向性だと思う。
でもSNSやブログが10年、20年後、ウェブサービスとして続いているかどうか分からないけれど、そういう圧力が強くなりすぎて、天気の話しかできなくなったら、衰退する速度はずっと速くなるだろう。

 

SNSになると、対面の会話では視覚と聴覚で処理する情報が、文字で読めるという視覚で情報処理するウェイトが俄然重くなって、自分の想像で補完する部分が暴走しやすいと思う。
書いてしまったことは、どのように受け止められてもしょうがないのだけれど、つっこみどころの多い文章は、それだけクソリプになりやすいし、クソリプを集めやすくなってしまうのではないだろうか。

基本的にログが残って、後から参照できる書き言葉は、書くときに誤解を少なくする努力が必要になるけれど、誤解をまったくなくすことは出来ない。
そして自転車に乗る練習のように、慣れないうちは転んで膝をすりむいて、格好悪いこと、痛い思いをして、自転車に乗れるようになっていくのではないか。ただ全世界に向けて格好悪く派手にころんでしまうと、もう自転車には乗りたくない、なんてことになってしまう可能性がある。

 

SNSにもブログにも、練習中という言葉や免罪符はないから転んだら痛い。でも正式に言葉を使いこなせる免許を受けないと、何も書けないというのも不自由きわまりない。
言葉を使いながら、覚えればいいではないかといえるなら、小さく間違って、小さく転ぶことを経験して、よりよく、次第に大きく使えるようになっていけば良いだけの話だと思う。

 

トラブルが起きたからといって、話し言葉や書き言葉は義務教育や高等教育を受ければ(個人の背景は違っても)誰でも使えるものだという前提を疑ったり、SNSやブログは免許制にします、なんていうのも大きな奴らを儲けさせたり、有利にさせるだけだと思う。

 

クソリプを積極的に飛ばせとは思わないけれど、自分にも書き出せない技量不足がありつつ、事情がありつつ書くだろうし、それを見る相手も同じだと思う。
ネット上で顔を合わせる人間は、あなたを他の人と同じく、平等に扱ってくれる学校の先生じゃない。
SNSは現行のシステムでは不完全だけれど、今のSNSがもたらしてくれた恩恵を受けつつ、利用者としてただ利用するだけでなく、利用者として模索する部分は必要だろうなと思う。