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ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

視覚の支配欲

最近写真を撮るとき、目に見えている世界を、自分が支配したい感じが強すぎる気がする。


スマホアプリのトイカメラはファインダーが小さくて、視覚のコントロール性を下げることできるのだけれど、それで視覚の強さが弱まっても、勘が働くので、構図がそれなりに形になっていたりする。構図が不十分なのは、もっと未熟なときにしておくべきことで、自分なりの経験を重ねてきた、今となっては難しいのかもしれないけれど、あやふやな感覚を忘れてしまうと、写真が固くなってしまう気がする。


もとい、見える世界の支配力をあやふやにしたいというよりも、見たい世界がないから、ラッキーパンチで新しい世界が見えてこないかと思っているのではないか。数を撮って自分に引っかかった写真をすくい上げて、その練度をあげるということでしか、見たい世界は見えないのかもしれない。

 


見たい世界の骨格づくりは、頭の中で理念的なものを考えられるのではないか、という気もしてしまう。
数を撮れというのは、蜷川実花森山大道も書いている。でも、自分が何を面白いと思うのかということは、撮って、見返してという作業をする中で、今以上に自覚的でないと、いくら数を撮っても、見逃してしまう気がする。
幸い自分の思う面白い写真は、ラッキーパンチではしっこを掴んでいると思っているので、もっと撮り歩く必要はあるのだけれど、資金が無い現状は撮り続けるのに厳しい。

 


私のイメージしている写真の姿は、単写真で見ることを想定していて、組写真ではない。私の組写真への道のりは遠くて、時間的に近い組写真を作ったのはTONTTUのzineを作ったくらいだ。もっとzineを作らないと鍛えられないだろう。


単写真でみるということは、写真1枚で何かを見てもらうということで、1枚に面白いと感じたことを詰め込む必要がある。切れ味勝負のカミソリみたいな写真があるべき単写真であると思う。
一方で組写真は複数枚で面白さを盛り込めればいいので、カミソリみたいな写真も必要だけれど、流れの中でカミソリばかり並んでも見るのも疲れるだろうし、箸休めのような切れ味の鈍い写真も必要になると思う。

 


単写真で構図を緩めたり、偶然性を取り込んだり、撮る工夫を続けることはすると思うけれど、組写真で流れをつくったり、緩急の付け方が身につけば、見たい世界を見る力もついてくるのではないか、と希望を持っているのだけれど、どうなんだろう。
とにかく、ただ単写真の善し悪しを判断するだけでなく、組写真を見る機会を増やしたいし、自分でも手を動かす必要があると思う。