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ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

伝えたいこと?

雑記

写真をSNSにアップするけれど、こんなことをして何になるのだろう、と言う感じがすることがある。いいねとか、はてスタが付けばいい、という感じではない。付けばうれしいけれど、それこそが求めているものではない感じ。
自分が「これを良いと思うのだけれど」と提示したことへのレスポンスを期待していて、それがいいねかもしれないのだけれど、そういうぼんやりしたやりとりでは、自分がそのレスポンスの意図を十分くみ取れないのかもしれない。

 

誰かの役に立てればいいと思って書いたブログは、よくグーグルで検索されているようなのだけれど、そういうTipsを書くのは、もうやめたい。そういうのは検索されることを先回りしているだけで、意味が無いというか、小手先の話を書いた自分を恥じている。
書きたいのは、もっと根本的な話のような気がする。しかしメタな正論をかざしたいわけでもない。

 

書いたものは、頭を使った運動の結果生まれたものだけれど、生まれたものが正しいものだとは思っていない。ただ自分の運動性で言葉を書いたらこうなった、というもので、書いた文章が自分の本当に言いたいことである、ということも言えない。このブログを読み返すと、Aと書いたことが、別の日では逆のBになっていたりすることはよくある。
ブログは書けば消さない限り、何度でも読み返せるので、文字列を読めば詳細に読み解けると思う人もいるかもしれないけれど、私は文章のプロではないので、現状では文字列に伴う内容は、十分に伝えきれないと思っている。

 

自分もそうなのだけれど、誰かのブログでふと目にしたものに影響を受けるということはよくある。写真だと知らない間に真似をしていたり、言葉では見ている方向性とか。

 

私の感覚が鈍いので、誰かに影響を与えていると思わないけれど、書いたことが誰かの役に立つと言うよりも、運動性を持つことの面白さとか、自分の運動性や位置エネルギーが移ることを期待しているのかもしれない。それが見えるようになるために、自分も書くだけでなく、読む感度を上げないといけないけれど。

 

自分は嘘を書いたり、不用意に人をあおったりするつもりは無いけれど、書いたものは書くという運動の抜け殻のようなもので、もう自分の中身はそこには入っていないか、別の形に移ってしまっているということもある。

 

私が紙粘土で作った造形物を見て、私の心理的なことを推察することが出来る、と言う人はいるのかもしれない。しかし私が見せたいのは、完成物の造形から心情を推察することではなく、私が指先だけで紙粘土をコネたのか、手のひらで押しつぶして粘土をコネたのか、はたまた全身全霊でコネたのかを、感じてもらうことなのかもしれない。見えるという人には、今の私の書いた文章でも見えるという人もいるかもしれないけれど、それが簡単に出来るほど自分が書けているとは感じられない。それは、これを面白いと思う私の伝え方が下手なのだ。
目指しているのは運動性を見えるようにすること。それを十分感じてもらえるようにするために、自分をどうしていけばいいのかはわかっていない。そんなことが出来るようになるのかもわからない。でもそういう、雲を掴むような気持ちで、毎回書いている。

 

しかし本当に伝えたいことが自分の中にあるのだろうか。そんなことも思う。まだ自分が楽しいからやっている、そんな範疇にいる気がする。