ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

四月某日

午前中はゆっくり目に起き出して、だらだらしていたのだけれど、午後はのぼるに会いに行った。

私の委託販売をお願いするzineを渡せれば、それでよかったのだけれど、やはり少し話しをてから帰った。

のぼるは、売るための運動をしているものをすばらしいと思い、売れてしまった人の作る物は、つまらなくなってしまう、という立場だ。
それは、創作物は圧倒的に新しくないと、面白くないということなのかもしれない。でも新しければ良い訳でもなさそうで、アーティストとしてのカラーは、共感できるところがないといけないようだ。すごく感度の高いことをいう。

新人だったりインディーズの人が、他人に何かを伝えるために模索している部分は芸術だと思う。しかし、売れた音楽アーティストのように発売するアルバムを重ねていくと、自分らしさの延長で作品を作るようになるので、自己の再生産になる可能性が高まる。のぼるはそれをつまらなくなった、と言うのかもしれない。


売れても売れなくても、自分の再生産をするようになったら、芸術から工芸に移るということだ。そういう移行は創作ではよくあることだと思う。自分も写真を始めたころから比較すれば、撮りやすい方法を選ぶようになっていると思うので、そういうことを否定したいわけではない。工芸は安定するし、仕上がりの品質も上がっていくはずだ。少なくとも悪いことばかりではない。

しかしそれが面白い物になっているかどうかという工夫とか、さじ加減というのは、かなり難しいと思う。自分の創作が目指したい視線の先がよく見えていても、目先の新しさで手を時間を使ってしまって、出来上がってみれば、誰かに伝えたいものと違ったり、ずれていたりということになりかねない。

自分の写真で目指したい場所はどこだろう。それは自分が面白いと思うことを世界に付け足すことなのかもしれない。それを面白いと思ってくれる人がいたら、ラッキーくらいの輪の大きさで。
もちろんやりたいことでメジャーになりたいという人もいると思う。大きな渦の中心になって、大きな物を動かして、いろんな人に影響を与えたいというのも、悪く無いと思うけれど、それを回すだけの器量が自分にはない気がする。もちろんそういうことは、一人でできるものではなく、最初は小さな輪から始まるものだと思うけれど。

でも昔の野球の王長嶋みたいな時代ならいざ知らず、いろいろな消費できる物があふれている今ではとても難しいことだと思う。
難しいから諦める、という部分が自分にもあるのは否定できない。でも思っているのは、自分が出来る範囲はとても局所的だろうということだ。それは自分が目指したいと思うかたちが、日常の見方を変えた、ささやかな発見であって、とにかく綺麗とか絶景という、みんなの共感を得てメジャーにしたいという方向とは違う気がする。
 
もちろん今も未来も、発見だけを出来るわけでなく、共感に及ぶこともすると思う。2極化して、どちらかだけできるというのは、難しいし無理のような気がする。でも中間的なことをしていても、世の中に出すというときに、きちんと選別できる目は持っていたいと思う。今出来ていなくても将来的にと言う話では甘いのかな?
 
発見すること、共感を得ることを考えること、そういう振れ幅を考えることも、写真の運動性なのかなと思えてきた。