ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

消費すること、されること

最近SNSがやりづらくなってしまった。そもそも自分はSNSで何をしてきたんだっけ?これは楽しいことだったのだろうか?SNSで自分の写真をシェアすることも、今ではやらされている感も強まって、楽しめていない気がする。
 
それは写真歴が長くなってきて、自分の写真が瞬間で消費されることへの割に合わない感、が強くなって来たからかもしれない。割にあわないという尺度で、まず考えてしまうのは、疲れているのかなとは思うけれど。
 
写真教室に通っていた頃から、作品と思った写真は、写真教室や写真展ではみせるが、ネットにはアップしないことが多かった。
しかし、写真教室を離れ、写真を展示する機会もなくしてしまった自分が写真を見せられるのは、ネットを使って写真をシェアすることだけだった。それでも、自分の写真を見せたり、誰かの写真を見たりするのは、楽しいことには違いない。
でもプリントを展示するのと、ネットで画像をみせるのは、根本的に違うと思う。
 
ネットで見せることは、リンクをクリックするという、ある程度の能動性があるものの、敷居が低い。そもそもリンク先を見る人なんて、ほとんどいない。
だからといってタイムラインに流すとなると、ついでに見るものになってしまう。そこで目に留まっているかどうかもわからない。自分の場合は、タイムラインで見ていたらどんどん忘れてゆく。自分をbotのようにして得たもので自分を作っていくということは、知識を得るには便利だけれど、どこか虚しい。
 
展示は会場に物理的に来てもらわないと、写真が見られないので敷居が高い。
敷居を越えて来てくれる人は、写真に対する興味が高く、直接フィードバックをくれることも多い。それでも、つまらないと思われてしまえば、瞬間で忘れられていくけれど。
でも自分の経験では、脚が止まる展示も少なくない。そしてそういう展示が、大まかにでも記憶に残る。
自分が望む自分の消費のされかたは、敷居を高くして能動的になってくれる人に見てもらうのが、理想なのかもしれない。そして自分を作るのも、そういう人が生きている感じのするもので、作りたい。
 
気にするべきは消費されるという感覚を、はてなスターや、はてブの数、ブログの平均セッション時間や、Twitterアナリティクスの結果で計らない、ということだと思う。
消費されるということは、自分の何かを削られてしまう言葉のように響く。消費するということは、割にあうかどうかで考えがちだ。それは無料のコンテンツであっても、時間を消費するとなると変わらない気がする。
自分がつくったものを見せる時は、誰かに伝えたいというもので、誰かが何かをつくろうという気持ちを、触発できるかどうかに焦点を絞ることが、きちんと消費されるということだと、この文章を書いてきて思った。でもそれは自分に見る目が無いと、見えないのだろうな、とも思う。