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ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

寛容さを身につけたい

登録しないと読めなくなってしまっているが、リンクを貼っておく。
内容は精神障害者のホームを川崎市で作ろうとしたら、周辺住民の反対運動にあってしまった。という話だ。


わかりあえたら:不寛容時代に/1 住民、漠たる不安 住宅街の障害者ホーム建設 「暮らし壊される」、過熱した反対運動 - 毎日新聞

ニュースになれば「寛容さは正しいこと」という正論が多数派になると思う。当事者でなければ、何とでも言えるからだ。
でも不寛容さを多く見かけるようになってきている気がする。去年ならTwitterで、公共交通機関での乳母車をどうするか、ということは話題になった。
 
自分が苦労していないことについて、自分がそうなるかもしれないという、想像を働かせるということの欠如から、自分に迷惑がかかる(かもしれない)ということについて、当たり散らしたり、反対運動をしたりして、寛容になれないのは、どうしてなのだろうか。
 
それは日本国内なら、ほとんどが日本人で、日本人同士なら日本語で意思伝達が出来てしまう(と思いこんでいる)こともあると思う。
日本人は外国語が話せないと、仕事や生活が出来ないという、生死に関わることは大抵ないだろう。
しかし自分の住んでいるアパートの隣室に、外国人男性が引っ越してきて毎夜騒音が酷い状況で、音を下げてくれと交渉しにいくのは切実な問題になるだろう。
大抵の人は、管理会社にクレームを入れて対応してもらうだろうけれど、それでもどうにもならなかったら?自分がそこから引っ越せる力がなかったら?どうするだろう。
問題解決手順で、相手の文化や認識を、一度は自分で受け止める寛容さを、避けられないのではないだろうか。
 
分かりやすい例で、外国語を持ち出したけれど、たとえ日本語でもそう変わりないと思っている。

 

言葉を理解してコミュニケーションしているわけでなく、行間でコミュニケーションしているなら、日本人同士でも意思伝達は、共通の文脈を持っていないと、外国語を使うのと変わりない難易度ではないだろうか。
普段日本語を使う不自由さを感じないので、問題認識しづらいと思うけれど、共通の文脈を持たない場合、寛容さがないと齟齬が発生して、関係がギクシャクしてしまうのではないか。
 
と、自分のことを棚に上げて書いてみたが、悲しいかな自分も寛容な人間ではない。それでも共通の文脈を持たない人間と、お互い存在しても良いのだという方法を身につけないと、自分が生きて行けないと思っている。
人間は生きている限り他人に迷惑をかけるものだろうし、自分も誰かの多少の迷惑を被っても我慢して、自分のかけた迷惑分はお返ししないとという気持ちで、まず自分から他人にお返ししていかないといけないのかもしれない。