ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

自由になるって、何から?何について気楽になりたい?

 
パッと思いつくのは、お金かな?
お金でやり取りする世界において、これほど不自由を感じる縛りも無い。それはお金がないから、買いたい物も買えず不自由という発想だと思う。

大きな金額のお金があれば、何かしたいと思っている人には、たくさん出会って来たけれど、そういう人たちは本当に宝くじかなにかで大金を得た時に、その何かをするのだろうか?
大金を得たいという話を聞いているとき「案外、お金が手に入っても、何もしないんじゃないか?」という、いたずらな気分で話を聞いてしまうのは、私だけだろうか。

お金がなければ物々交換で、手に入れたいものを得るくらいしか思いつかない。そうなると、自分で何かを作る必要が出てくるから、それはそれで別の不自由になりそうだ。
お金が至上主義になっている世の中だと思うけれど、お金というのは、それなりに良く出来たシステムなのだろう。お金以外で、何かを買うなんて出来そうにないから。それを否定するなら、昔の物々交換の世界に戻るしかないのではないだろうか。
 
 
他にも、人間関係から自由になりたいというのがある。まあ、自分はニートだから仕事の関係がないのは、楽をさせてもらっている。
けれども他人に期待する力が過敏になると、疲れる原因になったりする。学校の付き合いは、卒業してしまえば、そこから自由になれるけれど、人生において続く関係、仕事や近所付き合いでは、関わりたいかどうか、事前に選べるものでもないし、否が応でもその中に入っていくことを強制される。そこでは、苦痛な人間関係になってしまった時にできることは、その人間関係から逃げ出すか、声を出して歯向かうしか無い。どちらも、無傷で済ませることなんて出来そうにない。
 
世捨て人の仙人でもない限り、数は多くなくても良いけれど、生きて行くには他人を必要とする、これは事実だと思う。口数の少ないと言われる私ですら、他人と言う友人の必要さは感じている。
人間関係なんて煩わしいというのは、本当は何も言わなくても分かり合えるような、あるいは口を開けば意気投合できる、楽な人間関係を求めているだけなのではないだろうか。
楽な人間関係に囲まれるのは、とても理想的だけれど、煩わしいことをしないと何とかする「おとなの力」を放棄しているようでもある。
 
最近は、声優さん等を見ていると、ボッチ(友人がいない、あるいは少ない)を売りにしているような方もいらっしゃるが、どこまで本当なのか?という怪しさが付いてまわる。ファッションボッチは論外として、本当にボッチかもしれないと思わせる人は、特殊で相当レベルの高い趣味や性質、知識を持ち合わせていて、それが一芸になっていたりする。
そういう人は、人との関わりは本当に苦手かもしれないけれど、興味のあることをしているとき、話しているとき、本当に幸せそうだ。でもその興味も、それに必要な知識を生み出してくれる人や、道具を生み出してくれる他人がいないと成立しないように思う。そこにある人間関係は、希薄かもしれないけれど、自分以外の他人を必要とする、人間関係であることには間違いない。
分業化されたこの社会で、自分の能力を上げて、自分で出来ることを増やそう、みたいなことを簡単に言う人もいるけれど、それは叶わない夢を見ているようだ。本当にやるなら、随分昔の生活に退行しないと叶わないだろう。
 
村社会と呼ばれた昔の人間関係は、現代よりもシツコク息苦しいく、逃れられない物だったのだろう。
しかし現代の社会でお金や人間関係から、自由さや気楽さを取り戻すには、自分でできる能力の数を増やし、専門職化でなく、程度はそこそこでも個人の能力を多様化させた社会を選ぶ人が増えて来たら、可能なのかもしれない。