ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

ネガティブと信用

クヨクヨしたり、ネガティブになったりということは、明るく元気ということより、世間的に低く見られている気がする。
写真の言葉で書くなら、ハイキー写真という、露出補正を上げて、白飛びしている部分が出るくらいの写真が、好まれがちな気がするように。(書くまでもありませんが、私は写真は何でも有りだと思っているので、ハイキーもローキーも見ていて楽しいです。)
でも個人的には、いつもポジティブな人より、ある程度ネガティブのある人の方が信頼できると思っている。
 
と書くと、これまで出会ってきた根っからのポジ(に見える)人に失礼かもしれない。でも、私が会ったポジな人から溢れる優しさには、どこかネガを知っているから出てくる優しさ、という感触があったような気がしている。
まあFacebookに並んでいるようなポジのオンパレードは、SNSで自分がどうみられるかを意識しすぎていて、さっき書いたような優しさという成分が抜けているのかもしれない。
 
ネガのある人を信用できるというのは、世間的に低いとされる価値観をある程度でも理解した上でも、ネガになる場面があるという意味で、ある種自分がどう見られるかという、心のガードが低いとも言える部分に、信頼できる感覚を覚えてしまうのかもしれない。
あるいはポジに見られたいという気持ちを持っていても、それでも溢れ出してしまう、ネガ要素になる問題の切実さがあると表明していることが、大きいのかもしれない。
いずれにしても、個人の抱える問題に、ある程度の深刻さを持っていない人を、私は信用しづらいのだと思う。
 
つきあいのある人で、ネガになっている人の書き込みを見ると、自分もネガに引っ張られるので、見ないようにしているという人がいる。自分の弱さの表明している人は、それでいいと思う。誰もが、むき出しのネガに触れて安全でいられるとは思わない。
自分もむき出しのネガに触れるのは、やはり難しいと思うけれど、誰かのネガを許容できる人間でありたいなと思う。ネガを解決するのは、医者かカウンセラーか、あるいはネガの当人が、もがいた先に自分で掴む光か、何になるかは分からない。
自分がネガの原因の解消方法を提供できる程、自分を万能だとは思わないし、問題解決をしてはいけないようにも思う。