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ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

何をもって作品と判断していますか

増田さんへのお返事を書きました。


「作品」として選んだ時点で作品だと思う

この中で書かれているのは、何を持って作品というか、ではなく自分が作品だと思えば(なんでも)自分の作品となる。ということだろう。
でも自分の中では、作品として考える写真と、そうでない写真、という境界線はあやふやだ。
 
この増田さんは、作品と記念写真を対比で考えているけれど、便宜上、そう書かれてあったというだけなのだろう。しかし記念写真が作品になっている場合を、私はこれまで見てきたことがある。
例えば家族の集合写真は、一般的に記念写真の範疇だろう。しかし、同じ場所で家族の記念写真を毎年なり、ある頻度で撮り続けた写真があったとして、一同に集めてみると作品と呼べる可能性があると思う。一枚の写真では記念写真にすぎないかもしれないが、複数~多数を一度に見ると、着ている服に時代があったり、家族の成長が変化として見える面白さがあったり、表情に味があったりすれば、作品と呼べるのではないだろうか。
 
記念写真と書くから作品との対比に、無理があるのかもしれない。作品の対岸にあるのは、記録かもしれない。

記録写真には感情的が入り込む余地がないように思える。それは作品とは無縁のようにも思える。
でも個人的には、そこでも境界はあやふやで、シャッターを切ろうという気持ちが働いたから写真が撮れたのだ、という気持ちに対して無意識すぎやしないかと思うのだ。
工事現場で撮る記録の写真は、さすがに作品にはならない気もする。
でも記録として食事を毎回撮った写真を、例えば1年分集めて見ると、自分の身体や生活を作ってきた食事に対して、自分なりに何か感じるところはあるのではないか。
 
作品なのか、作品でないのか、というのは写真1枚では見えなくても、複数枚で見えてくるのではないか?
 
しかし、作品と呼ぶに当たって、もう一つ考えないといけないと思うのは、作品と呼んでいるのは、工芸作品ではなく、芸術作品という意味ではないのか?ということだ。芸術は世界を押し広げる表現という、新規性がないと、芸術作品とは呼べないと思う。
写真の工芸作品とは、私も書いていて目になじみのない言葉だけれど、見たことのある写真を真似て撮るというのは、ある種の工芸的な写真と呼べると思う。新規性を問わずに、美しさやかっこよさ、要素をコピーして自分なりに撮る写真というところだろうか。
 
増田さんのいう作品が工芸作品ならば、自分が作品だと思えば工芸作品になりうるだろう。芸術作品なら、どう読み解かれたいか、というところまで説明できる力が必要になるだろう。その説明が、思いを込めてという言い方になるのかもしれないけれど。
芸術だから良くて、工芸ならダメ、という話ではなくて。作品の分類を自分の中で、ある程度明確にしていないと、何をもってどういう作品なのかという判断は、視点がずれてしまうと思う。
 
最後に、子どもの創ったアウトサイダーアートについても少し書いてみる。
子どもの創ったアートを、子ども自身は作品だと思うだろうか?よほどしっかりした芸術の教育を受けていれば、怖いもの知らずで、作品だと世に送り出すこともあるかもしれないが、そのようなことが良くある場合とは思わない。
良くあるのは子どもが創ったものに、それを見た大人が価値を評価して、世の中に問うという形になるのが、ほとんどの場合なのではないだろうか。
子どもの作品には作為はないかもしれないが、創作物をみた大人が作為を見つけて、作品だと判断するという意味で、やはり芸術作品か工芸作品かという部分の境界は、子どもの作品であっても同じだろうと思う。