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ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

能動的消費

消費に対して能動的というのは、Amazonレビュー、食べログ等、色々なところで、当たり前に目にするようになった。これはスポンサーの付いていない個人が消費したという合図が、能動的に表に出てきていると見ることも出来ると思う。
よく目にするレビューは、評論家のように消費した物や対象について、一言言えるのは当たり前という感じで、その一言が自分以外の新たな消費を生んだり、誰かの役に立つかと思っているように見える。
 
買い求めやすい価格のものは、レビューが多い傾向にあるようで、買うのが簡単な物ほど、簡単に能動的になれるようだ。
誰でも書けるので、有益と思われる評価もあれば、「商品の配送包装が悪かったので」というような、本質からずれたような評価も書かれてしまう。
そういう有象無象のレビューが並ぶと、レビュー全体としては商品を勧めているのか、買わない方が良いのか判断しにくくなり、私の頭の中は混乱してしまう。
ただ、誰もが酷評していると一応躊躇する。でも誰もが賞賛していても気味が悪いと思ってしまうのは、私が捻くれているからだろうか。
 
自分はというと、レビューを能動的に書いたことを覚えているのは、ビニール袋をAmazonで購入したら、高々数百円の商品購入に対して、ご丁寧に手書きのお礼の手紙が入っていて、びっくりしてレビューを書いたことくらいだ。
 
レビューが登場したことは、自分の消費を間違いなく成功させたいという、消費者心理を手玉に取ったような結果なのか、無駄が無く、それを手にして確実に幸せになれるような心理が、存在を許しているのかもしれない。
しかし、それはカリスマと呼ばれるような人がレビューするから成立してきたのであって、一般の人がそこに入れる余地は今でもあるのだろうか。
レビューを使う自由、使わない自由もあるし、レビューする自由、しない自由もあるとは思う。しかし、お金を払ってまでレビューしたいという気持ちが、私にはあまり良く理解できない。
 
レビューに似たもので、リコメンドもある。Amazonのリコメンドは優秀だと個人的に思っていて、この消費パターンならこういう商品もオススメですよというのは、統計的に結果が出ているのだろうし、頭も混乱しないので、関連商品を見つける時には使っている。
でも自分は例えば本を購入する時に、レビューを決め手にするような消費の仕方をしていないと思う。それは失敗も含めて、買い物をする楽しさだと思っているからだ。


自分の好みにあった、読書傾向に似たようなレビュアーを見つけられたら、それはそれで幸せなことかもしれない。でも誰かのオススメは、レビュアーの世界を知るのに役立ったり、自分の価値観との一致点を見つけるのにはいいかもしれないけれど、結局他人の世界に浸っているだけなのではないだろうか。そして自分の買い物で失敗したり、成功したりすることから、消費の経験を積めなくなってしまうのではないだろうか。レビューに頼ることは、自分で消費をザッピングして、自分に合うものを探す能力を下げてしまわないか。
多少浪費のある買い物でも、浪費を恐れない人の目が肥えてゆくのではないか。それは芸術関係で、とにかく多作であることこそが、結果的に作品の質をあげるという例に似ている気がする。
 
 
自分で表現できるブログなどの手段があるなら、読んだり観たり、消費体験した感想をシェアして、各人の感じ方の違いを追体験するなら、それは面白いことだと思う。
これはレビューを参考にして購入するのではなく、個々人で消費を体験した後の話を、多角的に見ることが出来るという意味で、面白いと思っている。ふと目にしたブログで紹介(レビュー)されている本に、書店で目的以外の本に出会ってしまうような感覚で、出会ってしまうことはあるかもしれないけれど、それはブログを書いている人をある程度信用できていないと、消費には繋がらない気がする。
 
そう考えると、自分が吸収したものを直接レビューで表現するのではなく、自分の中で抽象的に受け止めて、ブログ等の中の自己表現として「消費した時に、直接関係ないようなことも含めて、どれだけ何を考えたか」というような内容で書かれてゆくべきなのではないか?と思う。