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ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

自分古今写真

最近自分の撮った、古い写真を見返しているのだけれど、2008年くらいの自分の写真は「よくこれで今に続く自信が持てたな」と思わずにはいられない。ヘタクソなのである。
でもそれも、はてなハイクの存在と、写真教室の先生と仲間がいたから続けられたのだと、本当に心から思う。
 
ハイクで写真を見せてスターを貰うことが、週末の写真を撮り続けるモチベーションになっていたことは、間違いない。写真のポストでスターが付くことに、誰かの琴線に触れたことを、感じることができていたからだ。
 
写真教室は、卒業後に独りでさらに撮り続けるための力を、薄っぺらくないコミュニケーションを通して養ってくれたのだと思う。思い返しても、あれ以上いいお金の使い方をしたことは、無いのではないだろうか。それくらい感謝している。
 
昔の写真は下手である一方で、今の写真で出来なくなっていることもある。
明確に分かるのは、被写体全体から感じる雰囲気を見て直感で撮ることが、減っているように思うことだ。
昔の写真は技術が無かったので、画面の構成は下手だけれど、何となくだけれど被写体のニュアンスを捉えていて、1つの場面に対して撮っている写真の枚数が多い。
ラッキーパンチな写真も多いし、失敗も多いのだけれど、被写体への思い入れの深さと、執念深さで撮っていると感じる。感性で撮っているという、便利な表現も出来るかもしれない。
 
今の写真は撮る気になると、まず画面の構成を判断していると思う。
大雑把に「感じる」という便利な言葉で試行錯誤する写真ではなくて、もっと細目を瞬時に判断して試行錯誤している写真。
だから大きな失敗はグンと減った。その代わりにラッキーパンチは、ほぼ無くなりつつある。まあラッキーパンチの場外ホームランをめざすより、自分の写真のレベルのアベレージを意識しているからいいのだけれど。
完全に直感が無くなっている訳ではないし、直感を維持するトレーニング的なこともしているつもりなので、不用意に失ってしまったと落ち込む必要も無いのだけれど。

でも今の写真も、後5〜6年して見返したときに「大雑把な写真だなぁ」と思ったりするのだろうか。どうか直感が枯渇して写真を辞めている、なんてことがありませんように。