ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

「エモい」を写真にインストールする

 「エモい」という言葉が、主にSNSで普通に使われているのを、良く見かけるようになった。

 「エモい」は、2007年には存在していた言葉らしいが、2016年の新語として広く認識されるようになった結果なのだろう。

 さてこの「エモい」。私もぼんやりとしたニュアンスでしか認識してこず、積極的に使う気もなかった。

 

「エモい」が意味しているところ

 「エモい」という言葉を使う場面は、感情が揺さぶられたときや、気持ちをストレートに表現できないとき、「哀愁を帯びた様」などらしい。

エモい - Wikipedia

 『三省堂国語辞典編集委員飯間浩明は、「「あはれ」と似た意味である」としている。

 もののあはれの意味するところは、「折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁である。」

もののあはれ - Wikipedia

 なので「エモい」は、「うれしい、切ない、寂しい」などの複数に交じった感情を表現するときに使われるようだ、とされている。

 コラムニストの荒川和久は、「いとおかし(=とても趣深い)」の意味もあると書いている。

いとおかしとは - 日本語表現辞典 Weblio辞書

 

「日常」に「エモい」はあるのか

 このように古典で使われてきた言葉が、生まれ直したということであれば、私もぼんやりと理解できる。

 ただ私が日常生活で頻繁に使えるほど、私の周りに「エモい」ものは溢れていないようでもある。

 SNSのTLに流れる言葉をみていても、そこまで感情が揺さぶられることは無い。

 もともと「あはれ」が、「見聞き」することによって想起されるなら、意味の明確な「文字列」をみて「あはれ」とはならないのかもしれない。

 

「エモい」のつかいどころはどこにあるか

 せっかくぼんやりとでも理解できた新語なので、若者のふりをして使ってみたいというミーハー心もある。

 そこで思いついたのが、『写真』についてであれば、「エモい」写真はある(ありそうだ)と、私は思えることだ。

 写真はヴィジュアル言語であり、言葉の言語ではない。「うれしい、切ない、寂しい」といった感情が入り混じった複雑な感情を伝えたり、想起させるには、うってつけの表現形態であるように思う。

 

「写真」に新語をインストールする

 長年写真に親しんできた人にとっては、「エモい」をもっと的確な言葉で端的に表現できるのかもしれない。

 一方で、新しい言葉(意味は古典的だが)で、写真をとらえ直すと、写真に新しい視点が宿る可能性もゼロとは言えない。

 という訳で、私も写真について積極的に「エモい」観点で、自分の写真を見返してみようと思う。

 試しに最近デジタル撮った写真を、「エモい」と感じられるように編集してみたら、なんとなくフィルムで撮った写真に近くなった。

 私は、フィルム写真に対してとくに思い入れのある人間ではないが、子どもの頃見てきた写真はフィルム写真であることが、影響しているのかもしれない。

 もともと自分の写真で「切ない、寂しい」について写真表現することについては、得意であると思ってきた。

 しかし、ここに「うれしい」を入れるにはどうしたらよいのか、私には具体的に分からない。ただ、そういう試みは楽しそうである。

 

おわりに

 写真に関していうなら、ここ10年くらいハイキー写真が台頭し、たくさん「いいね!」されていた印象がある。

 私がハイキー写真に宿ると思うのは、「明るさ、ほのぼのとした」要素で、世界の鬱屈に目を向けても、私たちの世界が良くなっていく感じがしないために、せめて写真は「明るく、元気に」させてくれる写真が求められる時代なのだと思ってきた。

 ここに来て、「エモい」(うれしい、切ない、寂しい)という言葉が一般化していくなら、「エモい」写真が、日本を席巻しなくとも、見聞きできる物事に「エモい」という少し影があることを肯定的に、また日常的に意識できる時代になってきたのなら、時代位相の螺旋がまた少し進んだのかもしれない。

人生で重荷を背負わないために

『人はなぜ物語を求めるのか』感想みたいなもの

 物語に関する本だろうと、自分でお話を書く時に役に立つかもしれないと、タイトルで選んで購入した本。

 もちろんお話のヒントになりそうなことも書かれていたが、どちらかというと、人生で余計な重荷を背負わないようにするための本という印象だった。そういう本はとても好きなので、嬉しい誤算だった。

 

人間は物語る動物

 人間は瞬間ごと、時系列の前中後で、思うこと考えることが違ってくるのに、主体として一貫性を持たせるために、物語としてできごとを理解する動物。

 この内容は、写真の本質にとても近いと思った。

 写真自体は時間や事柄の断片だが、組写真といって複数枚の写真を1セットとして見せる場合に、物語性を持たせようとする人は、けっこう多い。

 写真を組むことが上手い人は、写真で物語を語れるのかもしれない。でも画像で物語りたいのであれば、連続した時間を体験できる、ムービーや動画で表現した方が、作品を観る人には滑らかに伝わると思ってきた。

 しかし、人間の本質が断片的な自己を物語としてつなぎ合わせているなら、写真もまた物語として受け取ってもらえる可能性があるように思えた。

 時系列以外の物語る写真を、いろいろ観てみたい。

 

「話をする」ことが持つ機能

 話をすることは、会話の内容や意味だけでなく、言葉をただ交わすことに、グルーミングのような働きがある。

 SNSで「クソリプ」と言われるリプライの正体を見た気がした。

 「クソリプ」とは、受け手が「そうだね」くらいにしか返事のしようのないリプライのことだと思っている。

 相手が自分にリプライを投げた行為に対して、受けないのも、返さないのも自由だとは思う。ただ、自分がリプライを受け取ったり、中間地点に落ちたなら、何らかの丁寧さを相手に見えるようにした方が良いと思った。エアリプを忖度してカバー、というのはしたくないけど。

 

人生で余計な重荷を背負わないために

 人間は不本意な結果の物語を受け取ると、「なぜ?」という問いを持つ。

 でも本当は理由ではなく、意味が知りたいと思っている。その意味を探すことは苦悩であり、その苦悩には意味がない。

 苦悩が解消されるという期待を抱いているとき、希望は持てないのかもしれない。

 自分が人生に期待するのを止めて、人生が自分に何を期待しているのか、なに(だれ)が自分を待っているのか考えるように転換してみるのも、手である。

 

 ここで、人生が主体で、自分が従属の形に見えたことが、宗教的だと感じた。

 

 この世界は本当は因果律的にはできていないし、理由のないことはいくらでもある。

 

 これは、哲学的な印象を受けた言葉で、ハッとした。
 
 人生のさまざまな場面で、自分や他人を制御できると思う範囲が大きくなりすぎることで、自我が肥大し、自分の生きる指針で苦しむことが増える。執着が強くなったら、手放すことは怖いかもしれないが、手放すことで自由になることがある。
 
 と、最終ページに向かうにしたがって、仏教やキリスト教に由来する話が多くなる。それだけ、宗教が人間を知っているということであり、出来る出来ないは当人次第だが、道を示せる人間の叡智の形が、宗教になっているのかもしれないと思った。

 

おわりに

 全体的な内容として、もう少し水増ししてハードカバーの書籍でも十分と思える本が、お手頃な新書で、最後までチョコぎっしりという内容の充実ぶりに、出会えてうれしいと思えた本だった。

 

人はなぜ物語を求めるのか (ちくまプリマー新書)

好きな果物

 好きな果物は?と聞かれると、簡単に手に入るバナナと答えていたのですが、近頃は旬のモノを食べることの贅沢さに気づきました。なかでも桃は、幸福感の高い果物だと思っています。

 

 桃の原産は中国と言われていて、日本で一般的に食べられるようになったのは、江戸時代の頃からだそうです。意外と新しい果物ですね。

 桃の国内産地は、山梨、福島、長野、和歌山、山形の順で並んでいます。福島の震災復興を食べて応援するということで、福島の桃が有名になりましたが、山梨だけで33%の国内生産量があるそうです。ここに福島が加わると、50%を超える生産量です。

 私は近場の和歌山産の桃を食べることがほとんどなのですが、生産されている「あら川の桃」という品種は甘さと柔らかさが美味しいです。

 

 桃の上品な甘さ、ほんのりといい香りするところは、日本酒に通じるところがあるかもしれません。

 柔らかな果肉の食感も好きです。また程よい大きさの果実であるところも好きです。

 おいしい桃はいいお値段になりますが、暑い夏から秋口に、桃をよく冷やして食べると、幸福度、上がりませんか?