ウサギノオト

ぼんやりした考えを、コネコネしてみる。

総ポエム時代を幸せにするヒト

 先日、Qiitaというウェブサービスについて、プログラミング技術の文章とポエムを分離してほしい、というような要望ツイートを見かけました。

 その発言をみて、初めて(ネットで言われる)ポエムの実感がつかめた気がしたのです。(いわゆる文学的な詩とは異なります)

 プログラミング技術の背景にある自己表現の私論とか、創作の背景にある思想がポエムなのかな?と。

 それなら、私が書いているブログも写真ポエムかもしれないな、と。

 

 ネットにポエムがあふれ出したと言われたのは、もう何年前でしょう。

 文化系トークラジオLifeで、ポエムの話を取り上げた2014年2月から、5年たってやっと私も実感できるようになったポエム。

 人によっては、写真でポエムなんて(ダサイのか、カッコ悪いのか)救いようがないという声を聞くこともあります。

 

 しかし、著名な写真家の写真論は、ありがたがって読む人もいます(私とか)。

 そういった写真論に触れて、何かつかめたと知覚するのは、そんなに悪いものではないはずです。

 

 私もネットでたまに写真ポエムを引き当てたときは、読んでみようとするのですが、読めないことが多いです。

 日本語で書かれていますし、文字列としては認識できますが、読み進められない。だから悪く見られてしまうのでしょうか?

 

 私が写真ポエムが読み進められないのは、言葉づかいや私論が過ぎて、一般的な読み手に届くように言葉を投げかけていないからではないかと思うのです。

 誰かとのキャッチボールではなく、脳内にあふれた言葉の一方的な排水。そんな文章がポエムと呼ばれるのかな?という印象なのです。でもそれを悪いと断じるのは、何か違うと思うのです。

 

 著名な写真家の写真論が読めるのは、写真家と私の間に編集者が入っているからではないでしょうか。

 まず編集者が星の数ほどあるポエムからキラリと光る原石を見つけて、写真家と対話して、写真ポエムを一般的に読める写真論に作り変えていくのではないでしょうか。

 


 写真ポエムをネットで披露するということは、私からすると、考えたことのログを置いていくことで、山を作っていくようなイメージです。

 その山を見て、「素晴らしい!」、「面白いね!」と共感してくれる人を待ち続ける山でしょう。

 だからログの山は、奇異に見えるくらいの偏愛で作られた方が、新しい発見を生む面白い山なのだと私は思います。

 ここまで書いて私は思うのです、これって1次創作の同人誌制作とほぼ同じじゃないかと。

 同人誌は2次創作ならある程度イベントでの需要が見込めますが、1次創作は甘い理想を持っていられない場所です。

 1次創作はネットと相性がいいと私は思っていますが、ポエムもイベントのような場所があればいいのかもしれませんが、敷居の低さからネットとの相性が、現状では一番なのかもと思うのです。

 でも難しいですよね。ブログを書いても、キーワードで引っかかった記事は読まれるかもしれませんが、その作者の一連の記事を読んでみるという風潮は、ネットに限らず書籍でもあまりないと聞きます。

 でも、創作文芸同人誌でおすすめされる同人誌を読むと、文芸の歴史を完全に知らずとも、商業誌では体験したことの無い読書体験をすることが多くあります。上手くは説明できませんが、何かが違うということだけは感じ取ることができるのです。それはすごく面白い体験です。

 

 ネットにあふれるポエムの山は、ほんのわずかな成功者の山以外、星屑と消えていく運命でしょうけれど、それでも偏愛をテキストに乗せて、虚空にポエムの信号を発信し続ける個人を、誰かとつなげられる編集者とウェブメディアが求められているんじゃないかと思います。

 いい仕組みを作れれば、ポエムの書き手が、ポエム編集者になっていくのかもしれませんね。

今になり、なぜ夕景写真を撮るか?

 長らく写真迷子を自称していた私ですが、ここに来て夕景を撮り続けています。写真を長く続けてきたのに、なぜ今夕景なのか?ちょっとまとめておきます。

 

本当のきっかけ

 事は今年1月に、ストレングスファインダーの結果を見返したことから始まっています。

 ご存じない方に説明すると、ストレングスファインダーは自分の持っている資質の強みを明らかにしてくれる自己分析テストです。仕事や勉強の分野決定、転職などで生き方を選ぶ時に、自分の力だけでは心もとないと思われる方は、ストレングスファインダーは力になってくれるでしょう。書籍を購入し、書籍についてくるコードを使ってウェブテストを受けると、自分の強みが分かるという仕組みです。

 私の強みの第1位は「調和」でした。人との対立を調整したりすることに力を注ぐと、私は充実感を得られるようです。

 結果を読んでなるほどと思いましたが、実際にこの「調和」の強みを今すぐ何かに活かせるか?と考えてはみましたが、よく分かりませんでした。

 

何かに活かしたい

 そこで、この「調和」の強みを趣味の写真に活かせないか?と考えました。

 「何を言っているんだ?お前は?」感が自分でもありますが、自分の撮る写真のテーマがよく見えない状態が長く続いていました。

 モノは試しで「調和」をテーマのひとつにしてみて、ダメだったら「まあ、こんなもんだよな~」で笑って終わればいいだけです。自分の強みを活かすのは、何も仕事や勉強だけでなくていいはずです。

 ここで写真における、「調和」を考えてみたいと思います。
私が思う写真の要素は、①光、②色、③形、④構図、⑤階調です。これらが「調和」すれば、自分が見たいと思う写真がみられる可能性が高まるはずだと考えました。
ココから単純な発想で、日中と夜が「調和」する時間帯の夕景を撮ってみようと思ったわけです。

 

夕景のいろいろ

 夕景と一口に言っても、日没前後の瞬間、日没後の薄明かりが残る時間、本当に真っ暗な時間と明るさが推移していきます。

 この推移の中で、写真のことを少し知っている人なら、マジックアワー(ゴールデンアワー)という言葉を知っているかと思います。

 マジックアワーは、日没後の薄明かりが残っている時間のことで、光が均質であり、光をコントロールしやすい時間だと、私は思っています。だからマジックアワーに撮ると、芸術的な写真が撮れる、なんて言われるのかもしれません。

 マジックアワーは少しあたたかく、少しさみしい気分にもなり、気持ちの遷移も見える時間です。

 私はマジックアワー写真が、夢心地のような風景になりやすいところが気に入っています。空が明るいのに、街の明かりがともっていて、「これはどの時間帯だろう?」と思ってもらえたら、ひとまず成功だと考えています。まあまだまだ、そういう写真は撮れていませんが。

 

おわりに

 今のところ身近にある夕景スポットを探しだしたり、ロケハンして撮影に行っています。

 プロが撮影するような有名スポットは、もう「こう撮るのがベスト」と答えが出ているでしょうが、マイナーな場所だと自分で試行錯誤できる部分があり、それでうまく撮れると楽しい面も大きいです。

 

 という訳で、ただきれいだから夕景を撮り始めた、という訳ではないのです。「調和」をテーマにして、比較的単純な考えですが夕景を撮っています。

 でも全く違う「調和」をどこかで見つけたら、次はそれを撮り始めるかもしれません。

自分の趣味を磨く結果は孤独へと続いていくか 

 誰かが趣味の芽を出そうとするとき、みんなで優しく見守って育てるのは大事です。

 趣味をスタートさせるときは、誰しも経験を積んできた人のすごいウデマエをみて、「自分はまだまだだけど、いつかはああなりたい」と思ったりするものです。

 しかしある程度自分のウデマエが上がった後も、皆が優しく見守ってくれるSNSのような場所にいられるのでしょうか?

 

 自分の話をしますが、私はある程度写真撮影の経験を積んできたので、私が夕景を1時間かけて撮影し、その後1時間写真編集をしてお見せする写真と、たまたまいい夕景に出会って、スマホでメモ代わりにサッと撮って見せてもらう写真では、見栄えに差が出ます。

 

 それぞれの写真に貴賤はないのですが、頑張って撮られた写真と、サッと撮られた写真がSNSに並ぶと、頑張った写真が簡単に撮られた写真をブン殴っているように見えることがあります。

 私は自分で写真が得意だと思っていますが、そんなに得意でもなく、経験も豊富ではない文章をSNSなどに書くことだと、気後れします。

 SNSに写真を載せることを、気後れする人がいるかもと配慮するなら、私も無編集の写真をお見せすることなどしても良いカモと思いますが、私は私で写真の練習を重ねて、さらにいい写真をお見せできるようになりたいので、手加減した写真を作るというのは、私にとっていいことではないでしょう。

 

 これから写真を始めてみようとか、写真初心者を委縮させるような頑張りは、私の望むところではないですから、みんなでゆるくワイワイ楽しい雰囲気のSNSに、今の自分の頑張りをお見せしていくのは、そぐわないのかもしれません。

 嫌われているかもしれないと感じる相手には、だいたい嫌われています。だから今回の話も遠からず、という面がある気がします。

 趣味である程度のことができるようになったとき、もっと上を目指してみたいなと思ったとき、みんなでゆるく楽しくという場所からは離れていくか、自分が何か新しい行動を始めないと、趣味をみんなでワイワイ楽しむことはできなくなるのかなと思うのでした。